伊勢湾周辺域における淡水魚類の系統地理

伊勢湾周辺域に生息する淡水魚類がどのような歴史的要因によって隔離・分散したのか、その要因の解明を目指しています。

伊勢湾周辺域に特徴的な淡水魚類

 愛知県・岐阜県・三重県を流れる河川のうち、伊勢湾・三河湾に注ぎ込む水域のことを「伊勢湾周辺域」と呼びます。この地域は、周囲の静岡県・滋賀県・岐阜県飛騨地方とは山地によって隔てられていること、氷期に海水面が下がった際に単一の古水系を形成していたことから、独自の生物相を形成しています。

 

 特に淡水魚類は様々な種類が生息しており種多様性が高いことが知られています伊勢湾周辺域を特徴づける淡水魚として伊勢湾周辺域に固有のネコギギウシモツゴトウカイヨシノボリや、準固有(静岡県西部にも分布)のトウカイコガタスジシマドジョウトウカイナガレホトケドジョウが挙げられます。 

※伊勢湾周辺域を表す用語は文献によって異なります。例えば「濃尾平野」と書かれることもありますが、濃尾平野は伊勢湾周辺域の一部(木曽三川の平野部のみ)を指すため、適した言葉ではありません。また、「周伊勢湾地域」との言葉もありますが、この用語は植物地理学上の言葉で、長野県南部や静岡県西部も含めているため、対象範囲が少し異なります。淡水魚関連の書籍や論文で使用されている伊勢湾周辺域と同義の用語としては、「伊勢湾周辺地域」、「伊勢湾集水域」、「伊勢湾水域」「伊勢湾流入河川」などを確認しています。工学系の分野では、「伊勢湾流域」、「伊勢湾流域圏「環伊勢湾集水域」などの用語も使われているようです。ここでは、『淡水魚類地理の自然史』など淡水魚類の生物地理関係の書籍、論文で目にすることの多い「伊勢湾周辺域」に統一しています。

DNAレベルで見た時の伊勢湾周辺域の淡水魚類

 種としては日本列島に広く分布するものの、遺伝的にみると伊勢湾周辺域に固有の集団を形成している淡水魚も多く知られています。カワバタモロコ、イチモンジタナゴ、ホトケドジョウなどが挙げられます。

 

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古水系と淡水魚の分布の関係

 今から約2万年前の最終氷期最盛期には、海水面が低下し、日本列島周辺では100m以上低下したことが知られています。その影響で、水深の浅い伊勢湾は陸化し、伊勢湾周辺域の各水系は1つの大きな河川(単一の古水系)を形成したと考えられています。実際に伊勢湾の海底地形を見ると、川が流れた跡が残っています。

 

 この古水系は、淡水魚類の移動に役立ちました。淡水魚は基本的に海を介して分散しませんが、古水系を介することで、2万年前には伊勢湾周辺域内の淡水魚は容易に河川間を移動できたと考えられます。その証拠として、伊勢湾周辺域内に淡水魚類相の違いはほとんどありません。

 

 また、この古水系を介した淡水魚類の交流は、DNAを解析した研究でも明らかにされています。例えば、ネコギギやウシモツゴ、カワバタモロコのミトコンドリアDNAを解析した研究では、多くの水系間(例えば東岸の愛知県と西岸の三重県の水系間)において、同じ塩基配列を持つ個体が確認されています。このことは、比較的近年(約2万年前)の古水系によって、淡水魚が自由に移動できた証拠として考えられています。

山地の隆起と淡水魚の分布の関係

 以上のように、氷期に形成した単一古水系の影響により、伊勢湾周辺域の淡水魚は遺伝的にも明確な地理的分化が見られないことが通説でした。

 

 一方で、伊勢湾周辺域では、更新世(約100万年前以降)に様々な山地の隆起や断層の活動が生じました。一般的に山地の隆起は、淡水魚の移動を妨げる障壁として働いています。また、間氷期には海水面が上昇し、現在のように水系が分割されました。氷期と間氷期のサイクルは約60万年前から現在にかけて約10万年周期で交互に到来する時期であり、分布の拡大と隔離が頻繁に発生した可能性があります。これらの伊勢湾周辺域における歴史的な地形的変化は、この地域の淡水魚の狭い地域ごとの地理的分化を引き起こした可能性があります。しかし、多くの淡水魚における系統地理学的研究からは、過去の遺伝的集団構造は明確に示されていませんでした。

 今まで研究された淡水魚は、河川を自由に移動できる遊泳性の高い種ばかりでした。そこで私たちは、移動性の低い淡水魚であれば,伊勢湾周辺域のような単一の古水系を形成した狭い地域においても、山地の隆起などの地史的影響による遺伝的集団構造を保持している可能性があると考えました。2020年4月現在までに調べた種類は、ホトケドジョウとトウカイコガタスジシマドジョウです。以下では、それらの研究について簡単に解説します。

ホトケドジョウの系統地理学的研究

 ホトケドジョウのmtDNAを調べたところ、明瞭に地理的に分化していることがわかりました。ホトケドジョウは単一古水系の影響を受けつつも、それ以上に山地の隆起などの影響を強く受け、地域ごとに隔離されたものと考えられました。

 

1)桑名系統、中津川系統、伊勢湾系統、三河-静岡系統を発見。

2)桑名系統は、他の3系統よりも遺伝的に近畿地方のホトケドジョウに近い。鈴鹿山脈と養老山地の隆起により隔離された?

3)中津川系統は、伊勢湾周辺域内で最初に分岐。周囲の地域からは断層運動により隔離された?

4)伊勢湾系統は、6つの地域系統(白点線)を内包。

5)三河-静岡系統は、2つの地域系統(白点線)を内包。伊勢湾系統と1地点で同所的に分布するのは河川争奪か古水系の接続による二次的接触? 

 

 

 

 

関連業績

Ito et al. (2019) Genetic population structure of the eight-barbel loach Lefua echigonia in the Ise Bay region, a single paleo-river basin in central Honshu, Japan. Ichthyological Research, 66: 411–416.

トウカイコガタスジシマドジョウの系統地理学的研究

 トウカイコガタスジシマドジョウのmtDNAを調べたところ、他種では明瞭な分化が認められる伊勢湾周辺域・西静岡地域間において、系統的な違いは示されませんでした。このことは逆に、両地域間で比較的近年まで交流できていた可能性を新たに示唆するものでした。ただし、集団遺伝学的な解析であるΦstの結果により、3つの地域は遺伝的に区別できました。

 

1)系統的には区別できるクレードはない。

2)西静岡地域では固有のハプロタイプのみ分布。他種より近年まで伊勢湾周辺域と西静岡地域間で交流できた?

3)三重県ではハプロタイプの分布と固定指数Φst)の結果から他の伊勢湾周辺域(愛知県、岐阜県)とは遺伝的に分化。氷期の古水系を介した交流か?  

 

 

 

関連業績

伊藤ほか(2020)トウカイコガタスジシマドジョウの遺伝的集団構造.魚類学雑誌,67(1):41–50.

アカハライモリの系統地理学的研究

 アカハライモリのmtDNAを調べたところ、伊勢湾周辺域内で地理的に違いのある系統が複数存在することがわかりました。これらの系統は、地理的にある程度まとまるものの、複数の系統が同所的に採集される地点が多かったため、過去の地理的隔離後、再び分散したことによると考えられました。その隔離要因として、氷期に形成されたレフュージアである可能性が考えられました。レフュージアがアカハライモリの遺伝的分化要因である可能性は、先行研究で明らかにされていましたが、本研究では、従来予想されていたよりも遥かに小規模で多数のレフュージアが存在した可能性を示唆しました。

 

1)2系統に大別された(東近畿−西伊勢湾系統、広域系統)

2)広域系統については、さらに3地域系統が見いだされた(志摩−名古屋地域系統、三河−静岡地域系統、紀伊山地地域系統)。

3)各系統の遺伝的分化要因は、氷期の小規模なレフュージアか。

関連業績

伊藤ほか(2020)伊勢湾周辺域におけるアカハライモリの遺伝的集団構造.爬虫両棲類学会報,2020(2):139−150.

現時点におけるまとめ

上記2種の系統地理パターンから、赤河・屏風山・権現山断層の運動や養老山地・三河高原の隆起などの地形変動が、新たに伊勢湾周辺域の淡水魚の地理的分化を促進した要因として示唆されました。また、海退期の古水系の接続は、伊勢湾周辺域内の交流だけでなく、伊勢湾周辺域・西静岡地域間でも生じていた可能性や、種によっては交流後に遺伝的に分化した可能性についても示唆されました。加えて、両生類については、氷期に伊勢湾周辺域内に局所的に複数箇所存在していたレフュージアが地域系統の形成に関わった可能性が示唆されました。

以上のように、地殻変動や氷期・間氷期の水系の接続・分断といった新たな地史的イベントが、伊勢湾周辺域における淡水魚や両生類の遺伝的多様性の創出に寄与してきたと考えられました。

伊勢湾周辺域の淡水魚類に関する他の研究

神通川水系から得られたカジカ小卵型

 

 岐阜県の日本海側に自然分布するカジカ属魚類は、カジカ大卵型のみです。しかし、2015年に神通川水系で採集されたカジカ属魚類のミトコンドリア DNAを調べたところ、伊勢湾周辺域産のカジカ小卵型のハプロタイプと一致しました。養殖場からの逸出と考えられましたが、1 個体のみの採集だったため定着の可能性は低いと考えられます。ちなみに、全長192 mmもある非常に大きな個体でした。

 

関連業績

伊藤ほか(2019)岐阜県神通川水系小鳥川から確認されたカジカ小卵型.日本生物地理学会会報,74:13–17.

参考文献

 

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付録

 

伊勢湾周辺域内で地理的遺伝的分化が見られる生物の文献リスト(更新2020.4.1)

淡水魚

ホトケドジョウ(Ito et al., 2019)

カワバタモロコ(Watanabe and Mori, 2008)

ウシモツゴ(Watanabe and Mori, 2008)

トウカイナガレホトケドジョウ(Miyazaki et al., 2017)

トウカイコガタスジシマドジョウ(伊藤ほか,2020)

 

 

両生類

ヤマトサンショウウオ

タゴガエル

 

哺乳類

ニホンジネズミ

 

湿地性植物

シデコブシ

ハナノキ

マメナシ

 

研究例はあるが、明確な遺伝的集団構造が示されていない生物

アジメドジョウ(Kitagawa et al., 2001)

ネコギギ(Watanabe and Nishida, 2003)

ゼゼラ(堀川・向井,2007)

タモロコ(Tominaga et al., 2009, 2016)

アカザ(Nakagawa et al., 2016)

オイカワ(Kitanishi et al., 2016)

カワヒガイ(鈴木ほか,2016)

イチモンジタナゴ

シロヒレタビラ

ヤリタナゴ

 

 

 

 

 

内容に間違いなどがあれば、是非直接ご連絡ください。地形図については、カシミール3Dのスーパー地形モデルを使用しています。